「ホットコーヒーのエスで」
という時、居場所を買っている。
それはコーヒーが冷めるまでなのか、コーヒー1つで居てもいいだろうという気持ちが冷めるまでなのかはわからないが、居るための場所と時間を買っている。
すぐ飲まないのはなぜだろうと考えて、そうなった。最近はふわふわしている。
居場所を買っている。この考え方は他のことにも言える。
ライブ中の30分は、自分を活かす時間をもらっている。
好きな人と居る時間は許される時間をもらっている。
居たくない場所にいないといけない時間は、許されない時間の中にいる。
何にもなくてそわそわふわふわしている時間は、時間そのものの中にいる。
ホットコーヒーをお店で頼めば、それが冷めるか飲み終えるまでは居る理由になるだろう。それはそのまま制限時間が過ぎれば出ていかなければならないということにもなる。
今はどんな時間の中にいる?
誰に許されて、どんな環境の中、どんな人間の中にいる?
そういえば、肌が荒れている。それもそうで、
荒れているものがない時の時間に対して、荒れていて動きや表現に痛みや違和感を覚える時間は、時間の動きが重くなる。空気の質が変わる。目が痛いとか肌が痛いとか、不調や軋みはこの世とのズレの合図だ。かと思えば、前大切だったものがそうじゃなくなりながら、以前見つけたばかりだったものに自分が馴染んでゆく。
面白い文章と面白くない文章の違いは?
興味の持てる音楽と、そうじゃない音楽の、在り方の
違いは?
-
肌が最初から白かったら思わなかったことがあり、
歌が歌えなかったら思わなかったこともあり、
そう思うと、今ここにいなかったら、あの人と会わなかったら、あの時ああしてなければとわんさか出てくるが、結局変わりはない気もする。
一つの出来事は一つの要素ではできていない。人一人にもきっと言えることで、一つの要素で人はできていないから、きっと僕はまたあなたと会うのだろう。
それを傷つけるとか傷つかないだとか、手を繋いだとかどうだとかは、
そんな些細なことがと言ってしまえるほどに大きく、そして小さく豊かな違いなのだろう。その違いをライブにしていくのが、目標。