レコーディング

 

心の変化を伝えたくて曲を残しているような気がする。誰に?と言われると別に個人ではないけれど、自分が変わっていくことを残しておきたいという気持ちがずっとある。

 

レコーディングを定期的にしている、それは人生で度々あった

 

いつかは人がお金を出してもらって知らない人の立派なところだったし、

いつかはめちゃくちゃ狭い洗濯機置くための灯りもないスペースでセルフで録ったし、

またいつかは友達がレコーディング機材を揃えていて友だちにとってもらったり、

と思えばお金を払ってちゃんとお店で録ってもらったりもした

 

そしてこの前は学校で録った

よく考えると不思議な人生だ!

 

レコーディングは記録という意味なので、本当に記録しているのだと思う

記憶を記録して感情をデータにしているのだと思う

冷たい言い方だけどそれは保存して誰かが使えるから良いことだと思う

 

し、誰も使わなかったとしても

一人の人が生きて動いた感情という脳みその電気信号が起こした文章の証

という感じがしてまた良い

 

ただ、一つだけ問題があるのが

僕は機械音痴でパスワードを度々わからなくするので

 

また新しいアカウントを作るのだろうと予測しています

 

 

 

 

 

コード

 

 

昨日ははじめてバッドニーで歌った。はじめての場所で歌うことは楽しい。最近は映画を見た。それと後輩がすごく頑張っているから自分も変わらなきゃと急いでいる。

 

曲を作っている人の使っているギターコードを教えてもらうという行為が好きで、それは言葉の意味として考えるとその人の秘密を教えてもらうという意味になる。パスコードとかドレスコードとか、単体では決まりとか暗号みたいな意味もあるけど、自分的にはそれは何かに踏まえての言葉な気がするのでそれぞれに流れている「流れ」なんだと思ってる。コード進行、とかね。一つのことじゃなくて複数の流れそのものについて言っている。

 

遺伝子の配列のことも確か言うよね。

 

その人やその土地、その状況から学ぶ独特のコードはその場の流れだ。物事には流れがあって、たとえば曲を作るといつもおんなじ雰囲気が出てしまうその人らしさのことだとか、いつもこのライブハウス行くとこういう空気やなっていうことだとか、それもそこの"コード"かつそこの流れ、っていう感じがする。知らないコードが流れると曲でもそうだけど、無意識に合うこともあれば逆に難しいことだとか理解できないことをしていると思ってしまうこともある。

 

だから色んな場所のコード、つまり常識?を知って取り入れることで偏見が減っていく。自由になっていく。素で笑える場所が増えていく。表現できる自分の引き出しが増える。あ、ここではあのコードを使っているんだ、って。

 

状況に合わせた引き出しを多く作ることは自分を偽っていくわけではなくて、むしろ偽りにならないように合わせたコードを知りたいと思う。悲しい時に怒ってると思われたくないし、嬉しい時に楽しくないのかな?とも思われたくないよね?

 

何そのコード!教えて!って言う時、

この人の中にはこんな綺麗なコードが流れてるのかー、といつも感心する。俺には今までできなかったから覚えようとなる。

 

胸のうちに最近ぐるぐるするものがある。自分もそろそろまた変わらなきゃ。コードを更新しなきゃいけない。配列を作り変えることでもあるし、進行が進むことでもあり、その場に合わせていくことでもある。

 

コードコードコード、、、、

 

 

 

 

青色

 

昨日はお昼が授業時間を使わせてもらってのkansekaiのレコーディングで、夜が放生会のステージ。どちらも集中できて、力で歌い上げる感じをせずにすんでよかった。丁寧な感じ。

 

自分を抑えることで、人が入ってくることができる。最近のライブで覚えたことの一つ。録ったばかりの歌を聴きながら色々なこれからのアイデアを想像して、音源を作っていくことが楽しみになった。

一昨日のキューブリックの反省を活かして、放生会では知らないお客さんになるべく届きやすいように伝えた。お祭りで歌わせてもらうっていい経験だ。

 

賑やかな屋台と人混みの中で今までの夏を思い出した。高校生みたいな気持ちになる。シーブリーズ使ったあとみたいな、いろんなものに肌が敏感になってスースーしてるような繊細さ。でも大人の僕がそれを客観的に見ている。生徒たちや後輩を見て、彼らをその真っ只中に現在進行でただ感じながらいるんだな、いいなと思う。青春というやつだ。春じゃないけれど。

 

良いものになればいいな。音源。

 

 

 

真剣

昨日はkansekai。吉永さんと2人バージョン。kansekaiは本気で遊ぶ人たちの集まり、くらいの意味なのかもしれない。

 

昨日は緊張した。ちゃんと緊張した。場所によっては不必要な緊張、自分を大きく見せようとしたり今までやってないことを突然やろうとしたりするせいの緊張があるけど、ちゃんとしたものだった。自分の実力を出したい、という集中によるもの。

 

終わってみんなが笑ってて嬉しかった。身近な人が満足そうにしてることが、1番音楽をしてて楽しい。その日見てくれた人、音響も照明も全部含めてチームでみんなでバンドしてるみたいだ。

次はこの編成でやりたい、という別編成があるのでいつするか決めようと思う。

 

真剣にやってる人はかっこいい、を率先して目指したい。

 

みんながもっと燃えられるよう。

 

 

優しさ

 

最近忙しい。でも嬉しい。人と関わる時間が増えたのと、その理由に音楽があることが嬉しい。

できた曲を聴かせてもらった時に 暗くなっちゃった、って悪いことのように言われて良い人だなーと思った。誰かのテンションを下げちゃうかもしれない、って自分のために作った時ですら考えている。

 

 

安いガットギターを持ってライブをしに行って、真剣に歌って、何度かちょっぴり浮いた。余り物を大事にしたいって何故かいつも思うんです、って話をMCで話した。

 

人に話しながら整理されていくことがあって、自分で語り出しといて迷子になる時がある。でも聞いてくれる人はそれでも聞いてくれる。

 

小さな声じゃないと話せないことや思いつかないことがある。細かいことに気づくのは、優しさだと思う。

 

アレルギー

 

最近食生活を見直した。自分はアレルギーが多い。気づけば無視して食べていた。コンビニ飯も増えた。

 

身体が受け付けないものを乗り越える方法は「受け入れて慣れる」しかないといつからか思ってたけど、思い出した。「離れる」「分ける」という手段があったこと。

 

身体の調子も心の調子も良くなってはじめて、やりたいことが久しぶりにぽつぽつまたできてきて、感情が素直に出てくるようになって気づいた。不健康だった。忙しかったり、耐えることが当たり前になると心がまっすぐでいられなくて小さくずっとイライラしてしまってた。

 

みんなアレルギー反応なんだな、人によって特別過敏になってしまうものがあるんだ。そういうものに反応しすぎると戦いみたいになってしまうので、離れて自分の大切にしたいものを深く大切にする方向に行く。

 

kansekaiたのしー

自由になることは技術

 

kansekaiを始めてからやっと出来るようになったことの1つに、「MCをしない」

というのがあって、正確には必要なことは話すんだけど必要じゃないことまで話さないで済むようになった。歌だけでどこまで音楽だけでどこまで伝わるか信じてみよう、という気持ちが持てるようになった。

 

きれいに整頓された文字よりもごちゃごちゃのノートのほうが好き、

でもそこからほんとに必要な言葉だけ抜き取ったほんの一言とかがほんとは欲しい。

そのために普段から普通の言葉で話せたり、普通に話すようにただ歌えたらそれはすごく良いなって思う。

 

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本気だから考え過ぎて悩んでる人を見て、すごくいいなって思った。そういう人のための答えはほんとは言葉でやりとりするところにない気がする。でも考え過ぎで変かもしれない同士の言葉のやりとりは少しだけ寂しくなくなる。

 

僕はもともと怖がりなので人に合わせてしまう部分があるのだけど、そのわりにはわがままなので我慢しても破裂する。

だから我慢の反対を探す。昔は自由だと思ってたけど、好き勝手にやる自由はそれはそれで人と連携も取れないしお金もなくなる。真剣に表現したり再現するにはどうしよう?って考えることのほうが遠回りのようで結果的には自由に出来ていく気がしてる。

自由になるということは技術なんだな。