海を忘れていく

 

先日のニュースで学生の男の子が、電車でタバコを吸う男を注意してボコボコにされる事件があった。右頬骨折。

 

男の子は何を思って注意をしたかは知らない。でも何か違うと思ったのかもしれない。相手の男は正当防衛を主張していると言う。本当はどちらが悪いかは分からない。そもそも「本当に」悪いという基準が分からない、分からないけど、

 

悪かろうが良かろうが、文字通り暴力的に「力」がある方が絶対なんだなと思った。

 

高校時代を思い出す。今よりずっと分かりやすく、いろんな力の差があった。見た目、学力、人間関係、グループでの立ち位置、そして最終的にいざとなった時の暴力。

要は昔から今も世界はずーっと変わってないってことだった。忘れてただけで。今回の事件で思い出した。力があるほうが強い。弱い僕は勝てない。例え僕が誰かには勝ったところで、また違う誰かには勝てない。そしてその誰かも。そもそも僕らは戦っても意味がない。僕らが立ち向かうべきは、ねじ伏せればいいと思っている相手の「無関心」に対してだろう。だからそこから離れて、無関心に巻き込まれないよう花を育てる。

 

だけど、ズケズケとやってきた誰かに大切に育てた花を踏まれても、勘のいい人は何も言わない。諦めてしまうから。言っても育てた意味が伝わらないと。そんな時立ち向かうべきは、今度はその虚しさに対してであればいいと思う。彼は踏まれた花の為、もしくはいずれ踏まれる花の為に言い返したのかもしれない。そしてそれも一つの立ち向かい方だったのかもしれない。多分僕にはできないし、過去でもできなかった。

 

僕はその繊細な部分を曲にしておくことだけしかできなかった。結局それも自分に向けてだったけど、曲に残すというやり方を見つけたおかげで、僕は僕の繊細で人によってはくだらないやわな部分を今日まで荒らす人の入ってこれない場所に残すことができた。それは僕にとって「海」という言葉に置き換えられるような心の中の場所になった。

 

「海を忘れていく」のアルバムを作ったとき、その繊細さを置いていくつもりで作ったのだけど、残しておいたおかげで文字通り、残った。もう一度辿り着きたい景色として。忘れていく、としたのは忘れていきそうだから残しておく、という意味だったのかもしれない。

 

音楽は、沢山の人に聴かれているものも、そうでないものも平等に、ぶん殴られたら終わりだ。全然関係ない力だ。素晴らしいミュージシャンも、聴く気のない人には気に食わない等という理由だけでねじ伏せられるのだろう。それなら逆にもう、全ては平等なのかもしれない。人によってそれぞれ育てたい花があるだけで、そこに人が押し寄せようと花畑として管理されようと、誰も歩かない道の端の花だろうと、大切にしたい人や気づく人にとっては豊かな景色だし、そうでない人にはなんでもないのかもしれない。

だから僕は僕の気づきたい形で世界に気づき、残したい形で残す。ここに僕があったよって。

 

なかったことにしないこと。それが、昔怖かった暴力的な力に対して、今出せる答え。